ゴールドスミス・ノートが気になる(12)

聖ベルナールの援護でテンプル騎士団に脚光

・テンプル騎士団初期の経緯をWebで拾ってみたい。

1096年~1099年 第1回十字軍 エルサレム奪還に成功。地中海東岸にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国の主要4国をはじめいくつかの十字軍国家がつくられたことにより、多数のキリスト教巡礼者が聖地へ向かって旅ができるようになった。しかし、エルサレム市街は治安が比較的良好に維持されていたものの、十字軍国家のそれ以外の場所は危険な状態だった。エルサレムへ向かう街道には盗賊があふれ、巡礼者たちは日常的に、時には一度に何百人もが虐殺された。このまま放置してはおけない状態が何年も続いていた。

1101年の十字軍は失敗に終わり、1107年の秋から1110年にかけて5,000名規模・ガレー船60隻のノルウェー十字軍も行われたが巡礼者の危険な状態は依然つづいていた。

1119年 フランス・シャンパーニュの貴族ユーグ・ド・パイヤンほか9名でエルサレム巡礼者の警護を目的とした修道会・テンプル騎士団を結成。

1120年 エルサレム王国のボードゥアン二世と総大司教ヴァルムントに修道会の設立を願い出て承認される。ソロモン神殿跡地を譲り受け、そこに立つイスラム教徒から占領したアル=アクサー・モスクを、修道会に本部として与えした。これがテンプル騎士団のエルサレム本部となる。

しばらくの間鳴かず飛ばずの状態がつづいていたテンプル騎士団だったが、その後九人の騎士のひとりアンドレ・ド・モンバールの甥で宗教界の要人であったクレルヴォーのベルナルドゥス(聖ベルナール)が修道会の強力な援護者として名乗りを上げたことによって様相が一変した。

1128年 ベルナルドゥスの尽力によりローマ教皇ホノリウス2世はフランスのトロアで開かれた教会会議でテンプル騎士団を騎士修道会として正式に認可した。

1139年 ローマ教皇インノケンティウス2世 テンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除、金利をつけた融資の許可…など多くの特権を付与。

ゴールドスミス・ノートが気になる(11)

騎士道精神と事業拡大能力の両立???

テンプル騎士団が金融の世界に対して果たした役割は非常に大きなもののようで、現代人の想像を超えていると見るべきだ。最大の謎は聖地巡礼者を危険から守る警護を目的として創設された騎士団は、どちらかといえば義侠心に燃える精神的価値実現を追求する真面目な堅い集団であったはずなのに、それがやがて国家を凌駕するほどの巨大な金融事業と経済活動の担い手といえるほどの巨大集団に何故変貌していったのか…という点だ。
その悲劇的な結末がフランス国王(フィリップ四世)の非道とローマ教皇の非道をあからさまにする内容であるため、世界史の中では伏せておきたい部分であったことも問題を分かりづらくしている。
常識的に考えてテンプル騎士団が本来持っていたと思われる堅物の宗教家や騎士道精神が金融や事業拡大の経済運営を本格的に志向するわけがないのだから、テンプル騎士団の創設メンバーの中にはいつしか交易と商売の血を象徴するフェニキア人の血とノウハウ、金融を象徴するユダヤの血とノウハウが深く入り込んだと考えるのが自然だろう。
第一回十字軍遠征の勝利(略奪)の結果できた十字軍国家・エルサレム王国からソロモンの丘用地がテンプル騎士団に寄贈され、そこのソロモン宮殿跡地にテンプル騎士団の本部が置かれたわけだが、この地こそその昔のユダヤの地であり、その北側にはフェニキアの地(レバノン)であったことからみても、ますますテンプル騎士団へのユダヤ人とフェニキア人の侵入が問題とされなければならないはずである。
そのへんの雰囲気は単なる啓蒙団体だったイギリスのフリーメーソン組織の中にイルミナティ勢力が侵入してゆく過程と似たものがあったはずだ。

西欧諸国が来たるべき新時代に向けて国家の形成期にあった時代である。ローマ帝国が西と東に分裂したのが395年、西ローマ帝国が崩壊したのが476年。その後にできた巨大帝国・フランク王国も843年に西フランク王国東フランク王国中部フランク王国に3分割されてしまった。ロシアの前身となるノヴゴロド国、イングランドのノルマン・コンクエスト、スペインのレコンキスタ。
そうした時代に諸国を統治しようとした支配者階級が一番求めたものは何であったろうか…?。それは自己の統治の正当性を認めてくれる存在であり権威を与えてくれる存在であるのは当然である。そこには宗教的権威は不可欠なものとなっていた。そんな時代背景のなかローマ教皇ウルバヌス2世により十字軍遠征は呼びかけられたのである。
これに呼応する諸国の様を見ると、全ての新興国家が喉から手が出るほど自己の統治の正当性と国家の権威と承認を欲していたであろうか、…想像に難くない。
この社会的ニーズに見事に乗ったのがローマ教皇でありテンプル騎士団だと見ることができる。

ゴールドスミス・ノートが気になる(10)

テンプル騎士団が世界初の国際銀行?

十字軍からルネサンス期までに起きた金融変化とはどのようなものであったのか…?。とにかくこの期間に大きな変化があったはずだ…という推測はしていたものの、私の知識ではどうもはっきりしない。モヤモヤしたまま、夜中に「十字軍 金融」などとキーワードを入力してあれこれ検索をかけていたら、何とドンピシャ疑問にはまる見事な解説がされているサイトが見つかって久々にびっくりした。何ヶ月間も悩まされていた問題に、ドンピシャ光が当てられたような気がしてくるブログだ。こういうことは非常にめずらしい。
『とある歴史好きオヤジの戯言』というブログの テンプル騎士団………世界初の国際銀行の破綻 という回である。
テンプル騎士団が世界初の国際銀行だったなんて初耳だ。聞いたこともない。
勿論、テンプル騎士団という存在の概要は知っているつもりでいたが、それはあくまでも十字軍に関連した騎士団としてであり、よもや世界初の国際銀行だったなどという話ではない。
詳しくはこのブログを読まれるといいと思うが、要は「ゴールドスミス・ノートが気になる」と題した私のブログタイトルに対するそのものズバリの回答のようなものが、ここで紹介されているのである。ゴールドスミスでは「預り証」が「銀行券」となり「紙幣(通貨)」となっていったと呼ばれたものが、テンプル騎士団では「預託証券」と呼ばれるだけである。そして担保の裏付けもない紙幣が自己増殖を始める「信用創造」という近代銀行業最大の機能の発見もゴールドスミスと全く同様である。おまけにテンプル騎士団では「信託銀行」機能の創造まで加わっているから驚きだ。
このテンプル騎士団金融に果たした役割を知れば、なぜ14世紀につづいて起きる銀行業や損害保険業という現代につながるルーツがこの時代に出来上がっていったのかが理解できる。
第1回十字軍(1096年)のあと1119に創設され1307年にフランス国王によって一斉逮捕、異端審問、死刑にされてゆく展開は、滅茶苦茶な脚本によるハリウッド映画でも見ているようである。
しかし、金融に於けるテンプル騎士団果たした役割が大きければ大きいほど、そういうノウハウや知識を伝授したのは誰なのか?、という当初の疑問は以前残る。テンプル騎士団が創設された当初は純粋にキリストの聖地エルサレムの聖地を奪還しようという大義で始まったわけだから。十字軍の戦費を用意した勢力がいた頃、テンプル騎士団はまだなかったのだから…?。

ゴールドスミス・ノートが気になる(9)

十字軍遠征の戦費はどこから調達?

あっという間に日が経ってしまう。1週間、2週間と経ってしまうと、前回最後に書いたときの自分の問題意識が何であったのかも、すぐには思い出せない。年を感じる。
とにかく、まず金匠がいつごろから顧客から金貨を預かり始めたのかを知る必要があると思ったわけだ。次にその預金を融資にまわしても問題が起きないことを金匠が発見し、最終的に預けられた預金量の9割まで貸し付けてもOKということを会得して、自己資金の何倍も貸し付けて収益を最大化させたいった時期を知りたいわけだ。要するに、レバレッジを効かせると利益が飛躍的に増えることを金貸しは知るわけだ。これこそ一大金融革命だろう。
そしてその時期を見定める一応の目安として、十字軍以降の北イタリアの金融組織の隆盛から莫大な投機資金が必要であったろうルネサンス期の大航海時代の始まりあたりまでの300年間が一番怪しいというか、金融世界の大変革期とみられることから、この時代に完成されていったシステムであろうと私は勝手に当りをつけた。ここまでが前回の投稿だったように思う。
北イタリアのいフィレンツェ、ヴェニスの隆盛時代がストレートに結びつくわけだ。

しかし、そこでえらく引っかかる問題があり、やたらと気になって仕方ない。そもそも、その十字軍遠征を可能ならしめた巨大な戦費はどこから来たのかということである。ローマ教皇に金を貸し、その呼びかけに呼応して遠征に参加しようという各国の国王や貴族に金を貸すって、学者が文字で書くのは簡単でも現実には簡単に出来ることではないだろう。すでにこの時点で巨大な金融勢力の存在がイタリアを中心に存在していたことは疑いようがないように思われる。
ルネサンス期であれば、それは「宮廷ユダヤ人」なら可能だったのではないか…?、などと強引に推理できたとしても、あまり無理とは思えないのだが、十字軍はその400年前のことである。ましてこのとき各地に散在していたユダヤ人部落は無惨にもひどく殲滅されてしまうわけだから、当時の巨大な金融勢力がユダヤ組織であったと考えることには無理がある。味方を殺しても平気な勢力が既にこの当時から存在していたと考えるのは常識的には無理である。

そうであるのなら、11世紀には既に巨大な金融勢力があったとして、それはどこから来たのか…ということを知らなければならないことになる。素人考えながら思い浮かぶことは、何故イタリアの地で14世紀に損害保険や銀行の誕生など制度的に金融革命的な出来事が起きたのか…ということである。イタリアと言えば真っ先に思い起こすのは、この地にかつてあのローマ帝国が存在したということである。そして地中海といえば、そのローマ帝国が1000年以上にわたり地中海貿易を一手に仕切ってきたフェニキア人の要衝・カルタゴを滅ぼした帝国である、ということである。
1000年以上地中海貿易を一手に仕切ってきた…ということが、どういうことを意味しているのか理解することは容易でない。1000年の間一体、どれだけの交易基地が増え、数多くの船が地中海に作られていっただろうか?。交易が増えるということは決済が増えつづけるということであり、つまりは預金・貸付・手形・小切手・為替相場などの金融業務は当り前のように大きく膨れ上がり金融技術も大きく変化し発展していったに違いない。
そしてBC146年、カルタゴがローマ帝国に滅ぼされたからといってフェニキア人が全員虐殺されたわけでもないのだから、今度はローマ帝国の支配管理下で交易と金融を継続させていったに違いない。ちょっと驚きだが、後のローマ皇帝の中には敗軍の民・フェニキア人の血を引く皇帝までいるということだが、にわかには信じられない。しかも、あれほど禁じ弾圧したキリスト教が国教にまでなってしまうというのは何とも不思議でもある。
とにかく、地中海貿易を一手に牛耳っていたフェニキアの1000年、その滅亡から十字軍遠征までの1100年、その2000年余の間に産業と金融の世界にどのような変化が生じたのか知らないということは、ちょっと致命的で辛すぎる知識不足だ。

ゴールドスミス・ノートが気になる(8)

15世紀には準備金概念に基づく
融資レバレッジはできあがっていた

17世紀のロンドンのゴールドスミスについて語られるとき、要点は二つにまとめられると思う。
一つは
(1)顧客から預かった金貨を安全に保管しているふりをして、実は裏では顧客に無断でその預り金を貸付けるなど融資資金として使い、大勢から金利を取っていた。これは自分のものでもないお金を勝手に又貸しして利益を得るのだから立派な詐欺ではないか…?、という論点がまずある。
 
次に
(2)金貨を預かるときに発行していた「預り証」がいつのまにか紙幣へと変容して通貨を代用するものになっていった、という論点がある。これには異論もあるようで、その後百年以上経っても一向にその証拠となるような預り証が見つかっておらず、相変わらず預かったことを証する証文であったとする見解もある。
どういう経緯をたどって個別の銀行が発行した紙の銀行券が国民の間で通貨として認められていったのか…という問題は確かに重要だが、国家が発行したわけではないプライベートな銀行券が国の経済の流通を支配する通貨となって広まっていったことこそ重大なことのように思える。

(1)の詐欺ではないかという論点については、前回の投稿で試算したように、最初は詐欺であったとしても10年~15年経過してしまえば自己資金で融資がはじめられるようになってしまうのだから、当初は詐欺でも時が経ってしまえば合法的な行為に早替りしてしまうのであれば、歴史的にみてあまり重視すべき問題ではないと思える。
また、金庫での保管料を預金者には割引したり、無料にしたり、預金に対しては金利を払ったりすることによって預金運用に関しては完全に運用主の行為は合法化できるわけだから、悪事の核心を暴く…的な解説を読むと、何だか違うのでないかなあ…?、などという気になってくるわけだ。
 むしろ預かった預金の9割を貸出に回しても経営を問題なく回していくことが出来る…という融資限度を見極めるレバレッジの発見こそ歴史的な大発見だったように思える。
現代では中央銀行の決める「準備金率」さえ守っていれば幾ら顧客の資金を又貸ししようが当り前に合法的な行為とみなされるに至っているが、その原点がここで形成されたということであろう。

では、その原点が形成された時期はいつ頃なのか…、という問題が浮上する。
地中海貿易の発達による北イタリアの諸都市で本格的な損害保険が生まれたりバンクの語源がこの時期に辿れるということだから14世紀にはおおよそ形になってきていて、1492年のコロンブスの大航海が始まる頃にはほぼ出来上がった金融システムだと考えておきたい。ちょうどその頃の、15世紀にはメディチ家など大銀行家も出現したわけだから、当たらずとも遠からずだと考えておきたい。
つまり、17世紀のロンドンのゴールドスミスが登場する200年も前には金融レバレッジというものは既に完成されていた、というようにとりあえず見ておきたい。

ゴールドスミス・ノートが気になる(7)

トンデモナイ金融の世界の誕生!


金細工師が顧客から仮に100億円預かったとして、単なる保管料だけもらっている従来の商売に飽き足らず、ある時からこれを顧客には知らせずに勝手に融資にまわしたとしたら預金量(融資量)はどういう推移を辿るだろうかということを考えてみたい?

もし、月利1%年利12%として全ての経費を7%でおさめ、自己資金が毎年5%づつ増えていったとしたら、世間に対する融資額はどのような展開となるか…【早見表】
とても興味が湧くので一覧表にしてみた。
結論からいえば、融資額は15年で倍増、融資額は100年で130倍となる。
年間5%の純増というのは飛んでもない世界の始まりなのだ、ということが明らかだ。

預金額 100億
融資額  90億(90%)
増加額 融資額の年5%

(初年度) 94億5000万円
( 2年目) 99億 225万円
( 3年目)104億1863万円
( 4年目)109億3956万円
( 5年目)114億8654万円
( 6年目)120億6086万円
( 7年目)126億6390万円
( 8年目)132億9710万円
( 9年目)139億6195万円
(10年目)146億6005万円→10年間で162.889%
(11年目)153億9305万円
(12年目)161億6270万円
(13年目)169億7084万円
(14年目)178億1938万円
(15年目)187億1035万円→15年で倍増する、しかも増えた分はすべて自己資金。

(10年後) 146億6005万円  ×1.628
(20年後) 238億6656万円   〃 
(30年後) 388億5476万円   〃
(40年後) 632億5555万円   〃
(50年後) 1029億8003万円   〃
(60年後) 1676億5150万円   〃
(70年後) 2729億3664万円   〃
(80年後) 4443億4086万円   〃
(90年後) 7233億8692万円   〃
(100年後)1兆1776億7391万円   〃→130倍を達成。

しかし、ちょっと待ってみよう。
ここには融資額の増加は自己資金の増加のみをカウントしているだけで、預金する顧客が増えていくことによる融資額の増加がいっさい考慮されていない。多くの領主や商工業者が金細工師に金貨を預けることによって何らかのメリットを享受していたとすれば、その評判はあっという間に広がってゆくことは当然であるから、黙っていても自分たちもそのメリットや信用を享受しようと金細工師への預金希望者は増えつづけ、年間20%とか30%の増加などは当り前のように推移したに違いない。
そうすると融資額が15年で倍増などというのは逆の意味で現実離れしており、現実に対して変動をスローに見積もり過ぎている可能性が大であり、実際は7年~10年で倍増してゆく展開をみせたものと考えたい。

※WordPressメモ タイトルが一箇所では不便を感じていたが、+マークのブロックを追加メニューの中に「見出し」というものがあり、追加できることを発見した。これはありがたいので、ブルーの文字にすることにした。次はメインタイトル扱いされている「ゴールドスミス・ノートが気になる(7)」の部分を文字を小さくして単なるシリーズ・テーマとしておきたいのだが、やり方が分からない。

ゴールドスミス・ノートが気になる(6)

14世紀のイタリア金融業はかなりの隆盛

WordPressをいじることから少し離れていると、あっという間に一ヶ月以上経過してしまった。困ったものだ。
ゴールドスミス・ノートは気になるものの、これは17世紀ロンドンでの話。その前にゴールド・スミス自体が気になりだした。ゴールド・スミスという名称がロンドンだけのものだといけないので金匠とか金細工師という言葉を使った方がいいのかもしれない。

一体いつ頃から金細工師は顧客から金貨を預かりはじめたのか?。こういう疑問を抱いてネット検索をかけても大した知識が得られない。これは不思議なことだ。少なくてもルネサンス期のイタリア絵画には金細工師のもとに金貨を預ける顧客などの光景が描かれていたという。バンクの語源は14世紀イタリアのフィレンツェのbanco(机、ベンチ)に由来するというのだから、その頃には既に金細工師の活動はかなり歴史を刻んでいたものと考えられる。保険が誕生したのも確かこの頃のイタリアだった。やはり十字軍の遠征がきっかけとなってキリスト教圏とアラブ・イスラム圏の交易が活発となっていった頃には金細工師の業務内容というのは急激な展開を見せていたものと推測される。
 
つまり17世紀ロンドンのゴールドスミスの遥か昔、300年も400年も前から顧客から金貨を預かり、それを金利を取って顧客に貸し付けるという金貸し業務は形成されていったことは間違いないわけだ。
預かっている預金をどのくらい貸付けに回したとしても問題が発生しないか…という試行錯誤も1世代(30~40年)も経てば大体結論が出て、結局9割くらいまで貸し付けても問題なく経営が回っていくことが発見されていたはずだ。
自己資本は年ごとに充実する一方、預金者には金貨の保管料を割安にしたり無料にしたり、もしくはキチンと金利を払って対応するなど、15世紀頃には立派な社会システムとして機能する業界になっていたとみられる。
メディチ家のような大銀行家も出現し、大航海時代を演出する危険だらけの投機資金も難なく捻出され、巨大な資本がなければ到底できない損害保険業務もはじまり、やがて初の株式会社制度(1600年オランダ・東インド会社)を生む原動力となっていったことなどは全て間違いなく連動しているとみられる。

そもそも、こんなこと中学生の教科書にでもキチンと解説しておいてくれれば、現代の一般市民が知識の取得に苦労しないですむのに…と感じざるを得ない。

※WordPressのダッシュボードをいじっていたら、ウィジェットという項目があり、カレンダーという項目をいじっていたら偶然画面に配置できるようになった。この一ヶ月何の進歩もなかったので、一歩でも前進できたことがとても嬉しい。次に覚えたいことは「ゴールドスミス・ノートが気になる」というのは小さい共通シリーズタイトルとして、今の大きな文字は投稿の内容を反映したものにしたい。それでいてサイドバーの「最近の投稿」欄の表示には「ゴールドスミス・ノートが気になる(1)」「(2)」「(3)」と表示されればとりあえず満足できるのだが…?。

ゴールドスミス・ノートが気になる(5)

金匠が顧客から金貨を預かることによって、どのようなことが起きていったか……

(金匠が顧客から金貨を預かることによってどのようなことがが起きていったか…について考えてみたい)

→まず、顧客から預かった預金残高の推移を見ていると、年月とともに減っていかないどころか信用の高まりとともに確実に増えていくことが見て取れたはずだ。5年10年と預かっていくうちにその量たるや結構な額になっていったとみたい。
→それなら、と、自分の資産でもない預かっている金貨ではあるけれど、ちょっと拝借して預金の1割2割3割…と貸し付けて金利を取ってみたところ、結果的に毎年何の問題も起きないことが発見される。
→貸出し比率は数年のうちに4割5割6割となり、それでもまだ大丈夫。
→何のことはない、7割8割9割貸しても問題が起きない。
→これ以上貸す事もできないので貸出し比率は預金量の9割ということで落ち着き、金匠はこのスタイルでしばらくは自己資金の充実にいそしむことになる。ここまで変化するのに10年という年月は必要ないと考えられる。

→また、いつまでも無断で顧客の資産を貸し付けているわけにもいかないので、預金者にはキチンと金利を払うことによって完結させ、金匠の資金運用については別途の行為としての合法的な体裁を整えていくことにいそしむようになる。

(ここまでの結論) 結局、他人の財産を勝手に貸してみたら思いのほか上手くいった、ということである。大大的にやっていける目処がたったのなら、社会的体裁、法律的合法性などを整備していったに違いない。

とにかくこの段階では、
①準備率という概念と資金効率というレバレッジという概念の創造と発見がなされたと見るべきだろう。
②ゴールドスミス・ギルドで秘密保持
預かった金貨は10分の1を準備金として保管し、残りの90%の金貨は自分の資産でもないのに秘密裡に貸し出された。このことは金匠ギルド内で門外不出の機密事項とされ、いざ金貨が不足したときに支援するために互助会制度のようなギルド会員専用の準備金制度のようなものが創設され、取付け騒ぎが起きた金匠の急場を助けたに違いない。これが現代の中央銀行制度のひな型となっていったであろうことは容易に想像がつく。

この段階では、まだ顧客から金貨を預り、顧客に対して金貨を貸す、という金本位で通貨の価値を担保し保証しようとした世界ということに注意しておきたい。しかし、この時点で既に運用する金匠サイドからみると準備金率10%、レバレッジ9倍というすさまじい効率追求がなされている。しかもカウントされるその準備金ですら、そもそも自分の資本ではなく顧客の預金の一部でしかないというトリックが発生している。

ゴールドスミス・ノートが気になる(4)

預り証が銀行券に代わっていった証拠はどこにあるのか…?

ゴールドスミス・ノートとは顧客から預かった鋳造貨幣に対して発行された金匠の預かり証であり、これが現代の紙幣へと発展していった近代銀行制度の原点…、と、ちょっとネットで検索してみてもいたるところに書かれている。確かにゴールドスミスにより発行された預り証の画像なども見ることができる。
しかし、これが銀行券へ変化していったという画像はいくら探してみたところで、ひとつも出てこない。これはどうしたことか…?。
そんなことがあり得るのだろうか?。

例えば1億円分の金貨を預かる、1億円の預り証が発行される。まずそれは分かった。問題はそこから先、どういう問題が生じ、どういう展開を示したのだろうか…?。という点だ。
間違いのないことは、保管料を取って金貨を預かり保管するといった業務ではないさまざまな業務が時が経つにつれ増えていくことによって、「銀行券」というものの発行が当然のように必要になっていったということが考えられる。当然のようにという意味は、金匠からも顧客からも何とかして欲しいというニーズが高まったということだろう。どのような業務が増えていったのか?
融資業務、支払い業務、送金業務、為替業務、両替業務、預金勧誘営業…等々、これら金融業務というものは、増えはじめたら切りがないことは容易に察しがつく。これら業務の増大に対して実物金貨のやり取りや振替、預り証の書き換え・廃棄・新規発行の繰り返しでは耐え難いさまざまな煩雑さが金匠にも顧客にも生じていったのではないか?。
こうした背景が、やがて実物金貨でなくとも「いつでも金貨と変えられる保証があるなら私的に発行される金券・引換券・銀行券など紙幣でもいいよ…」となっていったのではないかと推察するのが適当と思わざるを得ない。

ゴールドスミス・ノートが気になる(3)

しばらく休んでしまった。反省。
おかげで、Wordpressの知識も何一つ増えなかったし、なぜゴールドスミス・ノートに興味を持ったのか、その動機さえ忘れそうだ。

まず、Wordpressについてはヘッダーとフッダーを作って配置できるようになることを当面の課題にしておこう。年をとってきたせいか集中力を欠くせいか、2~3日離れるとすぐ1~2週間たってしまい、そのうち何だか面倒になって放ったらかしてしまうパターンにはまり込んでしまう。何とか毎日30分でもいいから集中したいものだ。

ゴールドスミス・ノートに関心を持ったのは、現代の銀行制度を形づくった原点がここにあると読み、現代のユダヤ金融支配の原点がどのように出来上がっていったのか知りたいからに他ならない。また、知らなければならないと思ったからである。

調べていくうちにビックリしたことがある。まず、イングランド銀行が中央銀行として統一通貨としての発行権をもったのは1844年(ピール銀行条例)だという。エッと驚く、イングランド銀行が作られたのは1694年じゃなかったんかい?。
じゃ、この150年間という長い年月は何だったのよ…?。

また、スターリング・ポンド紙幣はイングランド銀行が独占的に創っているわけでなく、現代でも他に7行が創っていいるという…?。エッ…?。

スターリング・ポンド紙幣(Wikipedia)によると、
「中央銀行が紙幣の発行権を独占している大部分の国々とは異なり、イギリスでは中央銀行たるイングランド銀行だけでなく、スコットランドの3行と北アイルランドの4行(2行はアイルランド共和国に本店を置く)を合わせた7行のリテールバンク(法人ではない一般消費者向けの銀行)もポンド紙幣の発行権を有している。これは香港ドル紙幣の発行事情と同様である。」とある。知らなかったなあ…。

★ポンド紙幣発行権を持つ銀行の一覧
地域:イングランドおよびウェールズ
・イングランド銀行(ロンドン)
地域:スコットランド
・スコットランド銀行(エディンバラ) – ロイズ・バンキング・グループ系列
・ロイヤルバンク・オブ・スコットランド(エディンバラ)
・クライズデール銀行(英語版)(グラスゴー)
地域:北アイルランド
・アイルランド銀行(ダブリン)
・ファースト・トラスト銀行(英語版)(ベルファスト) – アライド・アイリッシュ銀行系列
・ノーザン銀行(英語版)(ベルファスト) – ダンスケ銀行(デンマーク)系列
・アルスター銀行(ダブリン) – ロイヤルバンク・オブ・スコットランド系列

何を今更…、高校生くらいの時に教えておくべきじゃないだろうか?。

※たった今、初めてWordPressでheaderの画像のアップに成功した。何度やってみても出来なかったことが、何だか偶然上手くいったときは非常に嬉しい。この調子で、明日はfooter、と「もうじき70」のアイコンのアップを成功させたいものだ。