ゴールドスミス・ノートが気になる(19)

何やかや用事が用事を呼んで頭も時間も占領され、今月は何も書くことができないまま月末に近づいてしまった。自分が最後に抱いていた問題意識が何だったのかもすぐには思い出せない。
とにかくテンプル騎士団が金融業務を発展させるなかでいわゆる現代の信用創造まで行ったのかどうか?、という点は是が非でも知りたいところだ。
ところで、信用創造って何だろう?。
よく解説されるのに、融資を受けたときに通帳に融資金額が記帳されて、いつでも引き出せば現金を使うことができるが、そのお金は他の預金者の預金を転貸ししたものでもなければ、銀行の自己資金から充当されたものでもない。新たに作られたお金(信用)だというような内容のものだ。
事の真偽は分からないが、中央銀行制度のもと日銀への預金準備率は「現在の日銀の銀行に対する法定準備率は0.05〜1.3%であり 、各銀行は日銀に預け入れた金額を準備率で除した額を個人や企業に貸し付けることが法的に許可されている。」とあるのだから仮に1%とすれば100億円を日銀に預ければ1兆円まで貸してもいいですよ…、ということになる。
預金量の9割を貸し出していたというゴールドスミスは準備金率10%で営業していたわけだから、それに比べると随分とレバレッジが大きくなったものだ。ただし、10兆円持っている銀行が1兆円貸し出すのと、1兆円しかもっていない銀行が1兆円貸し出すのでは同じ1兆円でも意味が違う。

ゴールドスミス・ノートが気になる(18)

歴史をいくら遡ろうと、もともと銀行券の発行残高に相当する金など中央銀行が保有した試しなどなし。

金本位制のもとでは発行した紙幣は金との兌換可能通貨であることから、中央銀行はその分の金を保有しておかなければならなかった。したがって複式簿記のもとでは、発行した通貨は負債勘定に記帳し、金地金は資産勘定に記帳される。現代では金との兌換は必要なくなったが、通貨価値を保つために引き続き通貨発行を負債扱いとすることを継続している。こういう論旨を展開しているのが日銀である。

ホンマかいな…?。

自分は社会的な建前論を知りたくてこの問題を考えているわけでなく、本当の史実の連鎖はどのようなものであったのかが知りたくて、つたない知能を酷使しているわけだ。

まず、発行した紙幣と同額の金資産を中央銀行が保有していた…というような事実がかつてあったのかどうか?、その証拠はあるのかどうか?、という問題がある。
ルールに誠実な日本人のことだから日本銀行では戦前それは事実であったかもしれないが、この制度そのものを作り出した本家本元の英国ではどうであったか?。
本家本元といえば、ユダヤ人金融家が支配していた英国と、ユダヤ人金融家が創設したアメリカのFRBということになる。そこではどうであったのか、ということが日本以上に問題なのである。第一次世界大戦までは英国ポンドが基軸通貨、第二次世界大戦以降はアメリカのドルが基軸通貨であったのだから。

世界恐慌後のイギリスやフランスの中央銀行では本当に発行した通貨、ポンドやフランの発行残高に相当する金を保有していたのかどうか?。
ニクソン大統領がドルの金兌換停止を宣言した1971年のFRBのドル紙幣発行残高と金保有残高を知っておく必要がある。
こういう史実を明記することなく理念やルール、そして理念やルールの変更ばかり論じることに興じている学者や評論家の存在が信じられないのである。

この問題については経済規模が拡大する中で金の保有量を通貨の発行量合わせて増加させることは事実上不可能であるのだから、基本となるそもそものルール自体が実社会に対して不適格だったわけである。
ところが、その実社会に対して不適格だったルールのうち、発行する通貨はそれに見合う金を購入しなければならないルールなのだから実質負債であり借金である、という口上のうち「負債であり借金である」という部分だけは何故だか残してしまうのである。金は購入しないことになったのだから、通貨の発行は本来負債でも何でもないことは言うまでもないことだ。
このような欺瞞的な議論は、水を飲み空気を吸わなければ生きていけない人間に対して水や空気は地球の生み出したものだから地球からの借財であり返済する義務を負うのは当然である…と言うのに等しい。それじゃその地球の持ち主というのは誰なのか、まさか将来出来るであろう世界政府だとでも言い出すのだろうか…?。

参考memo
アメリカの金保有高は1949年に245億ドルあったものが1970年には111億ドルまで減少している。これに対し1970年のドル発行残高はM1で2144億ドル、M2で6265億ドルとなっており実に保有する金の60倍近い流通量があった。ベトナム戦争による巨額な出費も大きく影響している。こうした状況下1971年8月13日、イギリスがアメリカへ30億ドルの金交換を申し出ると、アメリカは持ちこたえることができなくなり2日後の15日にはニクソン大統領が金とドルの交換を停止を宣言することになった。イギリスもアメリカもユダヤ金融勢力の支配下にあり、これなど打ち合わせ済の出来レース間違いなしといったところだろう。

ゴールドスミス・ノートが気になる(17)

銀行券は国王・国家と関係ない金貸しの裏長屋で印刷されはじめた

日銀のWEBサイトにこんな項目があるとは知らなかった。
ホーム > 公表資料・広報活動 >日本銀行の紹介 >「教えて!にちぎん」>日本銀行の目的・業務と組織>銀行券が日本銀行のバランスシートにおいて負債に計上されているのはなぜですか?

(質問)
銀行券が日本銀行のバランスシートにおいて負債に計上されているのはなぜですか?

(回答)
日本銀行は銀行券の発行を1885年に開始しました。当初、日本銀行の発行する銀行券は、銀との交換が保証された兌換銀行券でした。その後、金本位制度の採用を経て、金との交換が保証されました。こうした制度の下で、日本銀行は、銀行券の保有者からの金や銀への交換依頼にいつでも対応できるよう、銀行券発行高に相当する金や銀を準備として保有しておくことが義務付けられていました。このような銀行券は、いわば日本銀行が振り出す「債務証書」のようなものだと言えます。このため、日本銀行は、金や銀をバランスシートの資産に計上し、発行した銀行券を負債として計上しました。
その後、金や銀の保有義務は撤廃されましたが、一方で、銀行券の価値の安定については、「日本銀行の保有資産から直接導かれるものではなく、むしろ日本銀行の金融政策の適切な遂行によって確保されるべき」という考え方がとられるようになってきました。こうした意味で、銀行券は、日本銀行が信認を確保しなければならない「債務証書」のようなものであるという性格に変わりはなく、現在も負債として計上しています。
なお、海外の主な中央銀行においても、こうしたバランスシート上の取り扱いが一般的となっています。

この説明を読んでいると、『17世紀英国でゴールドスミスが金貨を預かったときに顧客に発行していた「預り証」がやがて通貨としての紙幣=銀行券となり、いつでも券面に記載されている額と同額の金貨と交換してもらえることが保証されているために、人々の信認を得てやがて通貨となっていった。』という説がそのまま日本銀行の認識として披露されていることに驚かざるを得ない。というよりも、1885年に日本の中央銀行を作った人々がそもそも英国の金融支配勢力だったのだから当り前の話なのだから、事の前後をひっくり返して説明されても困りものなのだ。
そして現在ではどこの国でも銀行券を金貨と交換することはしなくなったけれども通貨価値を維持していくために何をやっているかと言えば発行した通貨は借金として扱う、つまり負債勘定に記載して扱うことによって無謀な発行を食い止め通貨の信用を維持しているのだという。

ホンマかいな…?

まず、「預り証」が銀行券となり紙幣通貨となったというのならその証拠を見せなければならないはずだ。実のところそんな証拠はないから世界中の学会でも提示できないでいるのが実情なのではないだろうか?。17世紀のゴールドスミスで言えば100年経とうとも預り証は預り証としてキチンと発行されていただけで、譲渡性はあったものの通貨として広く流通していたなどという証拠は何もない。なぜそのようなことを世界でも日本でも金融学者といわれる人々は繰り返し言うのか…ということの方が疑問となるのだが、考えるに「預り証」ということによってその背景には実物資産である金貨があるんだよ、ということ、だから銀行券は裏付けがあって生まれて利用されてきた由緒正しきものなんだよ、ということを人々に信じてもらいたいから言いつづけているといった方が正しいと思えてくるのは何故だろう。いや、信じてもらいたいからというよりも信じ込ませたいから…と言った方が当たっている。実際問題、由緒正しき通貨であるはずの銀行券が、実はある時から国家と全く関係ないところで一部のユダヤの金貸しが裏の物置部屋で好き勝手に印刷しはじめたものだった…などという風に人々に思われたのではとても困るのである。金融という世界には通貨発行権を持っていた国王すら知らないところで始まっていた銀行券印刷の実態…というミステリーがあるわけだ。日銀としてはここのところを問題化されては非常に困るわけだ。

ゴールドスミス・ノートが気になる(16)

昔の王様や封建領主は通貨を発行するときに借金などしていなかった

昔の通貨発行権を持っていた頃の国王が金貨や銀貨などの鋳造硬貨を作らせて世の中に流通させていたころの事を知りたい。何故そういう知識を全く持っていないのか…?、ということの方が不思議だ。
現代では貨幣の発行は借金である。借金以外の通貨供給は認められているのか認められていないのかも私は知らない。国家、地方公共団体、企業、法人、個人…、借りる主体はさまざまだが自己資金以外に金融機関から資金を導入しようとする者は必ず借金となる。そもそもそれって、いつから?、何なの?、何故?。
それでは、昔の王様は自ら金貨をつくり発行するときに鋳造業者に借入書でも書いたうえで受け取っていたのだろうか?。
こういうことは中学校の教科書には明記しておいてほしいものだ。
いい年した老人がそんなことも知らないのだから(私だけかな…?、そうだとしても別に構わないが…)。

シニョレッジ効果という言葉を聞いたことがある。中世の封建領主を意味する英語の「seignior(シニュール)」が語源といい、額面価格と含有貴金属原価との差額を収入としていたことに由来するという。
こういう説明があるということ自体、想像するに王様は鋳造業者に金貨を作らせて自分の城に運ばせるだけで、別に誰にも借用書は書いていないことが想像される。そもそも国家以前に王様はいたわけでし、政府だって、国債だってあるわけじゃない。まして領主は王でもなければ政府でもない。国家とか、国債とか中央銀行とか現代人が理解しやすい仕組みなどはすべて後づけで出来ていったシステムでしかない。
王様は作らせたその貨幣を使うことによって通貨が世の中に出回っていく。しかし貴金属には供給の限りがありから好きなだけ作ることができない。それが逆に通貨の価値を維持してくれる。
もし、通貨の品質をさげれば他国の通貨価値が上がり、自国の通貨価値は下がる。したがって通貨の品質は容易には下げられない。こうしたサイクルによって通貨の供給過剰は避けられインフレも避けることができて経済は比較的に安定している時代が続いた。

つまり、通貨を発行した国王や封建領主がその分の負債をかかえこみ借金をかかえるということは基本的に起きなかったはずだ。借金をかかえるとすれば通貨を発行することができないのに借用書を書いて金貸しから借入れを起こして借金をかかえ、それが積もり積もった場合ということになる。
中世の国王が死にもの狂いで金や銀の貴金属を求めた背景には、こうした通貨の発行システム自体が、所有する貴金属の質と量に大きく依存していたという特殊な時代背景があったためであると考えられる。そのためにどれだけのアメリカ大陸の先住民が殺されていったかと思うと、学校の教師が中世の金融システムについて率先して教えたがらないのも理解できる気がする。いや、教えたくてもそのような知識も疑問もそもそも持っていないのかもしれない。
とにかく金融の歴史は知りたいと思うことが容易に知れず、闇が多く、隠されていることばかりだ。

ゴールドスミス・ノートが気になる(15)

プライベートな銀行券の発行こそが時代を変えていった

歴史的にみて、とにかく顧客から預かった金貨を別の顧客に又貸しするという行為が時間をかけて定着していったことは明らかだろう。顧客に無断の又貸しが嫌な業者は預金の管理費用のサービスやきちんと金利なり手数料を払って余分な預金を使わせてもらう合法的な契約をしたかもしれない。とにかく、やがて金貸しは預り金の9割までの融資が可能だという経験値を得ることになる。可能ということは顧客との取引において通常問題が起きないということを意味する。
100億円預かったら、そのうち90億円まで貸しても大丈夫ということは、別の言い方をすれば90億円貸したら終いということになる。これは現代風の金融概念を適用すれば預金準備率が10÷90=11.1%を意味している。しかし、この段階では信用創造という金融機関独特の機能はまだ発揮されていない。ここでは自己資金を遥かに超える融資をが行うことによって資金効率を大きく上げることができるというレバレッジ機能の発見ということである。これはこれで非常に大切な機能なので別途考えるとして、今は信用創造について考えていきたい。
 
このような状況下、預り証や手形から進化したと思われる「銀行券」なるものが考案され、いつでも額面の金貨と交換可能というキャッチフレーズが喧伝され、また携帯するのに軽くて都合がいいということも手伝って大いに人気となり、顧客がこの新通貨を信じて銀行券を使ってくれるようになることで一体何が起きていったのだろうか…?。結論から言えば「90億円貸したら終い…」ということではなくなる新しい金融の世界が構築されていったということである。金貨という実物通貨を100億円預かっているのだから、金融業務としてはそのノウハウによれば預り金の9倍の900億円の銀行券融資が可能ということになる。実物金貨だと90億まで可能であった融資が、銀行券融資なら900億円まで可能となってしまった。一挙に10倍である。何だか手品を見せられているような話だが、この銀行券の発行こそが、銀行の持つ特殊機能である信用創造の源泉である。
通貨発行権を持っていたはずの国王から見れば、100億円しか世の中に出していなかったはずだから使うにしろ受け取るにしろ貸すにしろ返すにしろその発行された100億の通貨が行ったり来たりしているだけのこと…と思っていた流通している通貨が、金融業者の手にかかることによって自分の預かり知らぬところで世の中に出回る通貨が1000億円になってしまっていたのである。何とも不思議な話だ。
国王がテンプル騎士団に通貨発行権を与えたなどという話は聞いたことがないし、宮廷ユダヤ人には特別に与えていた、などという話も聞いたことがない。そもそも通貨発行権など持ってもいなかった筈の金貸しが国家権力の預かり知らぬところで通貨と同等の銀行券が発行されて機能している世界が出来てしまったことになる。国王の預かり知らぬ「銀行券」なる代物が、いつのまにか実社会では通貨として定着していた。これが時代の実相となっていたとみるべきではないか…。
ただしそれは社会が豊かになって出回っている富が増えたということにはあらず、1000億の借金を金融業者から借り入れた社会が現れたということを意味しているわけである。結果として通貨の発行は借金においてだけ可能となる社会がつくられ、利潤を求めて金利と元金を契約通りに返済していくことこそが仕事となっていく。利潤がありそうな事業にはなんだろうと資金を投入してゆくという現代社会そのもののようなサイクルは実に十字軍以降着々と出来上がっていったわけだ。

ゴールドスミス・ノートが気になる(14)

紙幣登場の謎は活発な手形取引だった可能性

しばしテンプル騎士団の調査はお休みして別の方面から考える時間を設けたい。
 
「手形」というキーワードで検索をかけていくつか読んでいたら、何だか分からないことが出てきた。14世紀の北イタリアで始まったもの、というのがまず目をひいたものの、8世紀のイスラムの世界では手形取引が認められる…、というものもあったり、古バビロニアの時代には既に現代の手形のような取引、もしくはそれに準じた取引が行われていたという言及までみつかった。古バビロニアっていつ頃なのか調べてみたらバビロン第一王朝ということでBC2000年というとてつもない古さで、ハムラビ法典で有名な第六代のハンムラビ王の在位が前1792年‐前1750年というのだから、それぞれの指摘には信憑性があるものの、やはりあまりに時代が乖離していることに驚かされる。
しかし、盛んに商取引と金融取引が行われていた時代に手形取引がなかったと考えることは非現実的なので私個人の直感としてはバビロン第一王朝の頃には手形取引、もしくはそれに準じた取引は盛んに行われていたと考えておきたい。貸出し過剰で経済が混乱することも多かったというから、逆にいえば信用創造が大々的に行われるかなり進んだ経済体制だったことが伺われる。
そして、バビロンといえば域内にフェニキアもユダヤも含めて統治した一大王国であったのだから、この商売と金融の化け物のような神がかった民族が王国内にあって手形取引程度のことを活用しないはずがない。

手形のルーツについては今後じっくり調べていけばいいものと思うが、なぜ手形なるものに興味を持つに至ったのか…という点が私にとっては重要だ。手形というからには金融業者がいて、支払う振出人がいて、集金しようとする手形の所有者がいるわけだ。振出人は金融業者に資金を預けてあるのは勿論だ。支払いを受ける側の手形の所有者も別のシチュエーションでは手形の振出人になるわけだから、払った集金したといっても金融業者の口座の中を資金が残高を変えながら増えたり減ったりしているだけに過ぎない。
そうであるなら、口座に置いてある重たい鋳造硬貨はいちいち出し入れする必要がなくなり帳簿上の書換え業務が取って替わり、実物流通経済においては重たい鋳造硬貨をやりとりするよりも軽い紙幣に置き換えた方がありがたいのは勿論だ。金融業者に行く度に10kg持って行ったり7kg引き出してきたり、現実的にはやってられないだろう。そこで登場してくるのが持ち運びに軽くて便利な紙幣というものだったに違いない。これは業者と顧客の双方にニーズが一致していたから問題なく広まっていった新システムで、別に金融業者の陰謀で紙幣が考案されたわけではないものと思う。こうしたことを初めて大々的にシステムとして行い始めたのが実はテンプル騎士団だったということで考えておきたい。
もっとも紙幣という言葉は後々の時代が命名したもので、当初は引換券とか銀行券とか例えばテンプル騎士修道会券とか…、いろんな呼ばれ方をしていたはずだ。要はその引換券を持っていればいつでも本来の金貨なり銀貨なりの国王発行の鋳造硬貨に交換してくれるという信頼さえあればよかったわけだ。その引換券が修道会発行だって一向にかまわないのは当り前だ。
紙幣というものは、こんな登場の仕方をしたのに違いない。一応、そう思っておこう。
そしてこのプライベートな印刷物はどのくらい発行しても業務に支障をきたさないか長年の思考錯誤で発見したレベルが、顧客から預かっている資産の10倍前後までOK!ということに落ち着いていったわけだ。

ゴールドスミス・ノートが気になる(13)

テンプル騎士団、中世にあるまじき事業展開力

聖ベルナールが修道会の強力な援護者として名乗りを上げてくれたおかげもあり、その強力な後押しでローマ教皇はテンプル騎士団を騎士修道会として正式に認可、つづいて国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除、金利をつけた融資の許可…など多くの特権をテンプル騎士団付与したことによりテンプル騎士団の人気はホップ・ステップ・ジャンプと爆発していった。従来修道会に適用されていた「不輸不入の権利」よりも遥かに強力な特権が与えられたことにより人気が集中していった。
現金・土地・建物など国王、領主からの財産の騎士団への寄進が相次ぎ、貴族の子弟を騎士修道会へ入会させようという希望が欧州各地から相次いだ。これら莫大な資産をもとに本格的な事業展開に乗り出したところこそ、テンプル騎士団が他の騎士団と全く異なる点だ。
巡礼者は聖地巡礼に必要資金を準備しても自分が持ち歩くのは不安のため、道中の安全を期して騎士団に預金し、宿泊料・飲食料などはすべてエルサレムに着くまでは帳簿かチケット決済、屈強な騎士が資産を守ってくれているのだからこの上なく安全だ。往路に使った金額はエルサレムでいったん精算。帰路についても同じことを繰り返すわけだ。
金融業、旅館業、飲食業、輸送業、海運業、輸出入商社…、戦士や巡礼者のみならず国民生活のニーズのあるものなら全て応えてゆくという事業展開をみせてゆくが、この事業意欲は一体どこからきたのだろうか…?。世の中の変化が長期にわたり停滞したといわれている中世の時代イメージからは程遠いものだ。1,000年、2,000年と経験とノウハウを蓄積してきたフェニキアとユダヤの血筋がなければ思いも付かぬ展開のはずだ。

世の中の支配階級が国王、領主、貴族、教皇と体制を固めていけばその准支配者階級もじっとしてはいられまい。十字軍を境に各地に大学が創設されていくのはこの流れに呼応したものと捉えたい。
イタリアの自由都市国家ボローニャでボローニャ大学が生まれ、フランスでは権力者の介入に対抗して私塾の教師たちが結集しパリ大学が生まれている。「自生的大学」と呼ばれる大学の発生に対して、当然ローマ教皇や国王も黙っているわけでなく多くの大学は、カトリック教会の後援、教皇や世俗君主の主導で「創られた大学」も設立されていった。大修道院長、大司教、枢機卿などの教会の指導的職務、法律家、高度な医療従事者のほとんどはこうした大学で学位を取得した者たちに占有されていったのは必然的なながれである。
国王も教皇もお互いの権威を認め合いながら権力基盤を強固にし、国王と貴族も同様にして確固たる支配勢力として世に定着しようとする。
テンプル騎士団はまさにこうした流れを利用して成長し、結果的に利用されて終焉を迎えるのであるが、金融活動にしろ経済活動にしろ後世に与えた影響はすさまじく、その後500年近くはその延長線上に描かれる活動であったと考えておきたい。
宮廷ユダヤ人にしろゴールドスミスにしろロスチャイルドにしろ、全てはテンプル騎士団の築いた金融事業が原点となっていることは論を待たない。

ゴールドスミス・ノートが気になる(12)

聖ベルナールの援護でテンプル騎士団に脚光

・テンプル騎士団初期の経緯をWebで拾ってみたい。

1096年~1099年 第1回十字軍 エルサレム奪還に成功。地中海東岸にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国の主要4国をはじめいくつかの十字軍国家がつくられたことにより、多数のキリスト教巡礼者が聖地へ向かって旅ができるようになった。しかし、エルサレム市街は治安が比較的良好に維持されていたものの、十字軍国家のそれ以外の場所は危険な状態だった。エルサレムへ向かう街道には盗賊があふれ、巡礼者たちは日常的に、時には一度に何百人もが虐殺された。このまま放置してはおけない状態が何年も続いていた。

1101年の十字軍は失敗に終わり、1107年の秋から1110年にかけて5,000名規模・ガレー船60隻のノルウェー十字軍も行われたが巡礼者の危険な状態は依然つづいていた。

1119年 フランス・シャンパーニュの貴族ユーグ・ド・パイヤンほか9名でエルサレム巡礼者の警護を目的とした修道会・テンプル騎士団を結成。

1120年 エルサレム王国のボードゥアン二世と総大司教ヴァルムントに修道会の設立を願い出て承認される。ソロモン神殿跡地を譲り受け、そこに立つイスラム教徒から占領したアル=アクサー・モスクを、修道会に本部として与えした。これがテンプル騎士団のエルサレム本部となる。

しばらくの間鳴かず飛ばずの状態がつづいていたテンプル騎士団だったが、その後九人の騎士のひとりアンドレ・ド・モンバールの甥で宗教界の要人であったクレルヴォーのベルナルドゥス(聖ベルナール)が修道会の強力な援護者として名乗りを上げたことによって様相が一変した。

1128年 ベルナルドゥスの尽力によりローマ教皇ホノリウス2世はフランスのトロアで開かれた教会会議でテンプル騎士団を騎士修道会として正式に認可した。

1139年 ローマ教皇インノケンティウス2世 テンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除、金利をつけた融資の許可…など多くの特権を付与。

ゴールドスミス・ノートが気になる(11)

騎士道精神と事業拡大能力の両立???

テンプル騎士団が金融の世界に対して果たした役割は非常に大きなもののようで、現代人の想像を超えていると見るべきだ。最大の謎は聖地巡礼者を危険から守る警護を目的として創設された騎士団は、どちらかといえば義侠心に燃える精神的価値実現を追求する真面目な堅い集団であったはずなのに、それがやがて国家を凌駕するほどの巨大な金融事業と経済活動の担い手といえるほどの巨大集団に何故変貌していったのか…という点だ。
その悲劇的な結末がフランス国王(フィリップ四世)の非道とローマ教皇の非道をあからさまにする内容であるため、世界史の中では伏せておきたい部分であったことも問題を分かりづらくしている。
常識的に考えてテンプル騎士団が本来持っていたと思われる堅物の宗教家や騎士道精神が金融や事業拡大の経済運営を本格的に志向するわけがないのだから、テンプル騎士団の創設メンバーの中にはいつしか交易と商売の血を象徴するフェニキア人の血とノウハウ、金融を象徴するユダヤの血とノウハウが深く入り込んだと考えるのが自然だろう。
第一回十字軍遠征の勝利(略奪)の結果できた十字軍国家・エルサレム王国からソロモンの丘用地がテンプル騎士団に寄贈され、そこのソロモン宮殿跡地にテンプル騎士団の本部が置かれたわけだが、この地こそその昔のユダヤの地であり、その北側にはフェニキアの地(レバノン)であったことからみても、ますますテンプル騎士団へのユダヤ人とフェニキア人の侵入が問題とされなければならないはずである。
そのへんの雰囲気は単なる啓蒙団体だったイギリスのフリーメーソン組織の中にイルミナティ勢力が侵入してゆく過程と似たものがあったはずだ。

西欧諸国が来たるべき新時代に向けて国家の形成期にあった時代である。ローマ帝国が西と東に分裂したのが395年、西ローマ帝国が崩壊したのが476年。その後にできた巨大帝国・フランク王国も843年に西フランク王国東フランク王国中部フランク王国に3分割されてしまった。ロシアの前身となるノヴゴロド国、イングランドのノルマン・コンクエスト、スペインのレコンキスタ。
そうした時代に諸国を統治しようとした支配者階級が一番求めたものは何であったろうか…?。それは自己の統治の正当性を認めてくれる存在であり権威を与えてくれる存在であるのは当然である。そこには宗教的権威は不可欠なものとなっていた。そんな時代背景のなかローマ教皇ウルバヌス2世により十字軍遠征は呼びかけられたのである。
これに呼応する諸国の様を見ると、全ての新興国家が喉から手が出るほど自己の統治の正当性と国家の権威と承認を欲していたであろうか、…想像に難くない。
この社会的ニーズに見事に乗ったのがローマ教皇でありテンプル騎士団だと見ることができる。

ゴールドスミス・ノートが気になる(10)

テンプル騎士団が世界初の国際銀行?

十字軍からルネサンス期までに起きた金融変化とはどのようなものであったのか…?。とにかくこの期間に大きな変化があったはずだ…という推測はしていたものの、私の知識ではどうもはっきりしない。モヤモヤしたまま、夜中に「十字軍 金融」などとキーワードを入力してあれこれ検索をかけていたら、何とドンピシャ疑問にはまる見事な解説がされているサイトが見つかって久々にびっくりした。何ヶ月間も悩まされていた問題に、ドンピシャ光が当てられたような気がしてくるブログだ。こういうことは非常にめずらしい。
『とある歴史好きオヤジの戯言』というブログの テンプル騎士団………世界初の国際銀行の破綻 という回である。
テンプル騎士団が世界初の国際銀行だったなんて初耳だ。聞いたこともない。
勿論、テンプル騎士団という存在の概要は知っているつもりでいたが、それはあくまでも十字軍に関連した騎士団としてであり、よもや世界初の国際銀行だったなどという話ではない。
詳しくはこのブログを読まれるといいと思うが、要は「ゴールドスミス・ノートが気になる」と題した私のブログタイトルに対するそのものズバリの回答のようなものが、ここで紹介されているのである。ゴールドスミスでは「預り証」が「銀行券」となり「紙幣(通貨)」となっていったと呼ばれたものが、テンプル騎士団では「預託証券」と呼ばれるだけである。そして担保の裏付けもない紙幣が自己増殖を始める「信用創造」という近代銀行業最大の機能の発見もゴールドスミスと全く同様である。おまけにテンプル騎士団では「信託銀行」機能の創造まで加わっているから驚きだ。
このテンプル騎士団金融に果たした役割を知れば、なぜ14世紀につづいて起きる銀行業や損害保険業という現代につながるルーツがこの時代に出来上がっていったのかが理解できる。
第1回十字軍(1096年)のあと1119に創設され1307年にフランス国王によって一斉逮捕、異端審問、死刑にされてゆく展開は、滅茶苦茶な脚本によるハリウッド映画でも見ているようである。
しかし、金融に於けるテンプル騎士団果たした役割が大きければ大きいほど、そういうノウハウや知識を伝授したのは誰なのか?、という当初の疑問は以前残る。テンプル騎士団が創設された当初は純粋にキリストの聖地エルサレムの聖地を奪還しようという大義で始まったわけだから。十字軍の戦費を用意した勢力がいた頃、テンプル騎士団はまだなかったのだから…?。