通常、十字軍はエルサレムのイスラム教徒と戦ったばかりかユダヤ人の各地の村々も襲撃し虐殺していったという。キリスト教と対立するものは何であれ構わず滅ぼしていったような書かれ方をするものが多いが、ユダヤ人はまたしても大変な被害者となってしまい学ぶ人の心を痛める。しかし、果たしてそれが本当の姿なのだろうか疑問を呈する指摘を見ることはあまりない。
たとえ9割のユダヤの人々が虐殺されても一握りのユダヤ人は蓄財や商売、学問や法律、交易の才に長けていて各国の政府中枢に堂々と入っていられたのではないだろうか。まして残酷非情な取り立て能力が必須の徴税官などほとんどがユダヤ人に任されていたという現実がある以上、ユダヤ人を歴史の中で一律に被害者としてばかり見ることができないのは当然のことと思える。
十字軍を期にしたテンプル騎士団の尋常でない事業発展を考えるとき、これを義侠心あふれる騎士修道会の行ったことと考えるのは無理がある。古代からの金融と交易の発展を考えるときに千年間地中海貿易を独占したフェニキア人の活躍と植民事業のノウハウ、各地に離散したユダヤ人ネットワークによる手形取引や外国通貨為替両替の精通したノウハウがこのテンプル騎士団という新たに登場した騎士修道会に注ぎ込まれていったと考えるのは自然なことのように思われる。
歴史的な金融事業発展の端緒となったテンプル騎士団の事業拡大の本質は、姿かたちを変えたフェニキア人とユダヤ人の末裔たちの参入によってはじめて実現したものと考える以外に正解は見出すことは不可能なのではないか。
そもそもフェニキア人とユダヤ人って何がどう違うのか…よく分からない。
同じような場所で同じような時期に活躍し、同じようなときにローマ帝国によって滅ぼされている。片方は交易で片方は金融、車の両輪のような関係にある。言語はフェニキア語とヘブライ語、宗教はユダヤ教とゾロアスター教、多少違ってはいるがこの二つの民族は深い関係性があったのは間違いないものと思う。現代の貿易と金融中心のグローバル経済絶対主義のルーツは明らかにここにあることになる。
そう考えると今だに出自不明とかいわれるメディチ家とは歴史あるユダヤの金貸しがテンプル騎士団に入り込んでその事業乗っ取りに成功した才気あふれるユダヤ人そのものだったのではないか…と推察しても何の矛盾も起きてこない。テンプル騎士団が滅ぼされると、どこからともなく当り前のようにメディチ家が登場してくるのに出自不明とは、ユダヤの言論監視団体さん、いつまでも史実を誤魔化すのはいい加減にしてくれという気持ちになってくる。
メディチ家からはローマ教皇が二人くらい送り込まれており、そうなるとローマ教皇とユダヤのラビの区別がつかなくなってきても驚けない。現代の法衣に身を包み丸い輪のカロッタや五角形のミトラ(司祭冠)などのかぶりものをした姿はキリスト教というよりもユダヤのラビの親分というムードが漂う。とてもプロテスタントの白人が敬愛する姿としてはイメージできませんです。
メディチ家の周りにはユダヤ人の思想家や芸術家がわんさかいたということで、この後ルネサンスに拍車がかかってゆく歴史となってゆく。
Suicaカードと信用創造
信用創造って何なのか理解するために「Suicaカード」を例に引いて考えてみよう。
今日「Suicaカード」に持っているポイント残高は現金と同額の価値がある。不安だから「Suicaカード」は持たないという人がいれば変わり者扱いされるだろう。
このカードを発行する本社が業容拡張策をとり融資機能を拡充してバンバン「Suicaポイント」を国民に融資していっても、国家は文句を言う筋合いはない。
既存通貨を1兆円も持っていれば(持っていなければどこかから借りてくるか大勢が出し合えばいい)「Suicaポイント」を10倍の10兆円くらい平気で貸し付けても事業経営は問題なく回っていくだろう。そして自分で発行した「Suicaポイント」に対して金利を取っていくことだろう。借りた人はいつでも既存通貨と同等の買い物やサービスを受けられるのだから不満の持ちようがない。年に5%や10%の金利を取っても便利さも相俟って文句を言わずに既存通貨で返済していくと思われる。
やがて融資が10兆円だといくら頑張っても金利収益が7000億にしかならとする状況がつづくと面白くない。だから今後は学費の支払いから、海外旅行、車の購入にも融資していこう…、面倒だから家の購入まで貸してしまえとなっていくと融資残高も順調に拡大して20兆まで数年、もう一息30兆までまた数年となってゆき、数十年後には融資残高100兆円だの200兆円だのという規模に膨らんでいく。
このような経緯を経て国家がそもそも発行していない通貨量によって経済が回ってゆく信用創造経済の新世界まで昇りつめてゆくことになる。そして、実質的にどっちが正規の通貨だか分からなくなっていく。
テンプル騎士団が作り上げたものの本質、その後の世界の歴史で本格的な金融事業となってゆく「信用創造」とはこういうものであったことだろう。
この構造を考えると、旧JR本社は通貨発行権など持っていなくても、いくらでも「Suicaポイント」で融資規模を拡大して既存通貨を我が物としてゆくことができる。
やがて「Suicaポイント」が量的に既存通貨量を圧倒するようになると、国家に圧をかけて「Suicaポイント」を正規の通貨として承認させ、中央銀行を開設させ、「Suicaカード」以外の組織から通貨発行を禁止して取り上げることになる。
これが、17世紀にゴールドスミスノートが紙幣となり(ここで例えとした「Suicaポイント」)、19~20世紀にロスチャイルド銀行が欧米で中央銀行制度を完成させていく過程と考えていきたい(実際はまず既存の中央銀行たるイングランド銀行を乗っ取りやがて1913年にアメリカでFRBを開設しっていくことになる)。
あっという間に1年
バタバタ細かい仕事の忙しさがつづき、何も書かないまま一年が経ってしまった。せっかくプライベートな日記を書く癖をつけながら、WordPressの仕組みを学んでいこうとしたのに、長く中断してしまった。もったいない、反省。
一体自分が何を疑問に思い何を知ろうとしていたのかも忘れてしまった。本当に年を感じてしまう。「ゴールドスミスノートが気になる」というタイトルがあるところを見ると、金本位制とか紙幣の誕生とか中央銀行制度の誕生とか、そういったものをもっと知りたいと思っていたことは間違いないようだ。要するに太古の昔から現代に至るまでの通貨の誕生と金融取引の誕生と変遷を根本的に知りたいのだ。
おぼろげながら、テンプル騎士団を原点としてメディチ家の登場、宮廷ユダヤ人、ゴールドスミス、イングランド銀行の誕生、ロスチャイルド銀行、FRB創設という大きな流れがあることが分かってきたところで中断してしまった。
非常にもったいないので、ボチボチ再開したいと思う。
ゴールドスミス・ノートが気になる(19)
何やかや用事が用事を呼んで頭も時間も占領され、今月は何も書くことができないまま月末に近づいてしまった。自分が最後に抱いていた問題意識が何だったのかもすぐには思い出せない。
とにかくテンプル騎士団が金融業務を発展させるなかでいわゆる現代の信用創造まで行ったのかどうか?、という点は是が非でも知りたいところだ。
ところで、信用創造って何だろう?。
よく解説されるのに、融資を受けたときに通帳に融資金額が記帳されて、いつでも引き出せば現金を使うことができるが、そのお金は他の預金者の預金を転貸ししたものでもなければ、銀行の自己資金から充当されたものでもない。新たに作られたお金(信用)だというような内容のものだ。
事の真偽は分からないが、中央銀行制度のもと日銀への預金準備率は「現在の日銀の銀行に対する法定準備率は0.05〜1.3%であり 、各銀行は日銀に預け入れた金額を準備率で除した額を個人や企業に貸し付けることが法的に許可されている。」とあるのだから仮に1%とすれば100億円を日銀に預ければ1兆円まで貸してもいいですよ…、ということになる。
預金量の9割を貸し出していたというゴールドスミスは準備金率10%で営業していたわけだから、それに比べると随分とレバレッジが大きくなったものだ。ただし、10兆円持っている銀行が1兆円貸し出すのと、1兆円しかもっていない銀行が1兆円貸し出すのでは同じ1兆円でも意味が違う。
ゴールドスミス・ノートが気になる(18)
歴史をいくら遡ろうと、もともと銀行券の発行残高に相当する金など中央銀行が保有した試しなどなし。
金本位制のもとでは発行した紙幣は金との兌換可能通貨であることから、中央銀行はその分の金を保有しておかなければならなかった。したがって複式簿記のもとでは、発行した通貨は負債勘定に記帳し、金地金は資産勘定に記帳される。現代では金との兌換は必要なくなったが、通貨価値を保つために引き続き通貨発行を負債扱いとすることを継続している。こういう論旨を展開しているのが日銀である。
ホンマかいな…?。
自分は社会的な建前論を知りたくてこの問題を考えているわけでなく、本当の史実の連鎖はどのようなものであったのかが知りたくて、つたない知能を酷使しているわけだ。
まず、発行した紙幣と同額の金資産を中央銀行が保有していた…というような事実がかつてあったのかどうか?、その証拠はあるのかどうか?、という問題がある。
ルールに誠実な日本人のことだから日本銀行では戦前それは事実であったかもしれないが、この制度そのものを作り出した本家本元の英国ではどうであったか?。
本家本元といえば、ユダヤ人金融家が支配していた英国と、ユダヤ人金融家が創設したアメリカのFRBということになる。そこではどうであったのか、ということが日本以上に問題なのである。第一次世界大戦までは英国ポンドが基軸通貨、第二次世界大戦以降はアメリカのドルが基軸通貨であったのだから。
世界恐慌後のイギリスやフランスの中央銀行では本当に発行した通貨、ポンドやフランの発行残高に相当する金を保有していたのかどうか?。
ニクソン大統領がドルの金兌換停止を宣言した1971年のFRBのドル紙幣発行残高と金保有残高を知っておく必要がある。
こういう史実を明記することなく理念やルール、そして理念やルールの変更ばかり論じることに興じている学者や評論家の存在が信じられないのである。
この問題については経済規模が拡大する中で金の保有量を通貨の発行量合わせて増加させることは事実上不可能であるのだから、基本となるそもそものルール自体が実社会に対して不適格だったわけである。
ところが、その実社会に対して不適格だったルールのうち、発行する通貨はそれに見合う金を購入しなければならないルールなのだから実質負債であり借金である、という口上のうち「負債であり借金である」という部分だけは何故だか残してしまうのである。金は購入しないことになったのだから、通貨の発行は本来負債でも何でもないことは言うまでもないことだ。
このような欺瞞的な議論は、水を飲み空気を吸わなければ生きていけない人間に対して水や空気は地球の生み出したものだから地球からの借財であり返済する義務を負うのは当然である…と言うのに等しい。それじゃその地球の持ち主というのは誰なのか、まさか将来出来るであろう世界政府だとでも言い出すのだろうか…?。
参考memo
アメリカの金保有高は1949年に245億ドルあったものが1970年には111億ドルまで減少している。これに対し1970年のドル発行残高はM1で2144億ドル、M2で6265億ドルとなっており実に保有する金の60倍近い流通量があった。ベトナム戦争による巨額な出費も大きく影響している。こうした状況下1971年8月13日、イギリスがアメリカへ30億ドルの金交換を申し出ると、アメリカは持ちこたえることができなくなり2日後の15日にはニクソン大統領が金とドルの交換を停止を宣言することになった。イギリスもアメリカもユダヤ金融勢力の支配下にあり、これなど打ち合わせ済の出来レース間違いなしといったところだろう。
ゴールドスミス・ノートが気になる(17)
銀行券は国王・国家と関係ない金貸しの裏長屋で印刷されはじめた
日銀のWEBサイトにこんな項目があるとは知らなかった。
ホーム > 公表資料・広報活動 >日本銀行の紹介 >「教えて!にちぎん」>日本銀行の目的・業務と組織>銀行券が日本銀行のバランスシートにおいて負債に計上されているのはなぜですか?
(質問)
銀行券が日本銀行のバランスシートにおいて負債に計上されているのはなぜですか?
(回答)
日本銀行は銀行券の発行を1885年に開始しました。当初、日本銀行の発行する銀行券は、銀との交換が保証された兌換銀行券でした。その後、金本位制度の採用を経て、金との交換が保証されました。こうした制度の下で、日本銀行は、銀行券の保有者からの金や銀への交換依頼にいつでも対応できるよう、銀行券発行高に相当する金や銀を準備として保有しておくことが義務付けられていました。このような銀行券は、いわば日本銀行が振り出す「債務証書」のようなものだと言えます。このため、日本銀行は、金や銀をバランスシートの資産に計上し、発行した銀行券を負債として計上しました。
その後、金や銀の保有義務は撤廃されましたが、一方で、銀行券の価値の安定については、「日本銀行の保有資産から直接導かれるものではなく、むしろ日本銀行の金融政策の適切な遂行によって確保されるべき」という考え方がとられるようになってきました。こうした意味で、銀行券は、日本銀行が信認を確保しなければならない「債務証書」のようなものであるという性格に変わりはなく、現在も負債として計上しています。
なお、海外の主な中央銀行においても、こうしたバランスシート上の取り扱いが一般的となっています。
この説明を読んでいると、『17世紀英国でゴールドスミスが金貨を預かったときに顧客に発行していた「預り証」がやがて通貨としての紙幣=銀行券となり、いつでも券面に記載されている額と同額の金貨と交換してもらえることが保証されているために、人々の信認を得てやがて通貨となっていった。』という説がそのまま日本銀行の認識として披露されていることに驚かざるを得ない。というよりも、1885年に日本の中央銀行を作った人々がそもそも英国の金融支配勢力だったのだから当り前の話なのだから、事の前後をひっくり返して説明されても困りものなのだ。
そして現在ではどこの国でも銀行券を金貨と交換することはしなくなったけれども通貨価値を維持していくために何をやっているかと言えば発行した通貨は借金として扱う、つまり負債勘定に記載して扱うことによって無謀な発行を食い止め通貨の信用を維持しているのだという。
ホンマかいな…?
まず、「預り証」が銀行券となり紙幣通貨となったというのならその証拠を見せなければならないはずだ。実のところそんな証拠はないから世界中の学会でも提示できないでいるのが実情なのではないだろうか?。17世紀のゴールドスミスで言えば100年経とうとも預り証は預り証としてキチンと発行されていただけで、譲渡性はあったものの通貨として広く流通していたなどという証拠は何もない。なぜそのようなことを世界でも日本でも金融学者といわれる人々は繰り返し言うのか…ということの方が疑問となるのだが、考えるに「預り証」ということによってその背景には実物資産である金貨があるんだよ、ということ、だから銀行券は裏付けがあって生まれて利用されてきた由緒正しきものなんだよ、ということを人々に信じてもらいたいから言いつづけているといった方が正しいと思えてくるのは何故だろう。いや、信じてもらいたいからというよりも信じ込ませたいから…と言った方が当たっている。実際問題、由緒正しき通貨であるはずの銀行券が、実はある時から国家と全く関係ないところで一部のユダヤの金貸しが裏の物置部屋で好き勝手に印刷しはじめたものだった…などという風に人々に思われたのではとても困るのである。金融という世界には通貨発行権を持っていた国王すら知らないところで始まっていた銀行券印刷の実態…というミステリーがあるわけだ。日銀としてはここのところを問題化されては非常に困るわけだ。
ゴールドスミス・ノートが気になる(16)
昔の王様や封建領主は通貨を発行するときに借金などしていなかった
昔の通貨発行権を持っていた頃の国王が金貨や銀貨などの鋳造硬貨を作らせて世の中に流通させていたころの事を知りたい。何故そういう知識を全く持っていないのか…?、ということの方が不思議だ。
現代では貨幣の発行は借金である。借金以外の通貨供給は認められているのか認められていないのかも私は知らない。国家、地方公共団体、企業、法人、個人…、借りる主体はさまざまだが自己資金以外に金融機関から資金を導入しようとする者は必ず借金となる。そもそもそれって、いつから?、何なの?、何故?。
それでは、昔の王様は自ら金貨をつくり発行するときに鋳造業者に借入書でも書いたうえで受け取っていたのだろうか?。
こういうことは中学校の教科書には明記しておいてほしいものだ。
いい年した老人がそんなことも知らないのだから(私だけかな…?、そうだとしても別に構わないが…)。
シニョレッジ効果という言葉を聞いたことがある。中世の封建領主を意味する英語の「seignior(シニュール)」が語源といい、額面価格と含有貴金属原価との差額を収入としていたことに由来するという。
こういう説明があるということ自体、想像するに王様は鋳造業者に金貨を作らせて自分の城に運ばせるだけで、別に誰にも借用書は書いていないことが想像される。そもそも国家以前に王様はいたわけでし、政府だって、国債だってあるわけじゃない。まして領主は王でもなければ政府でもない。国家とか、国債とか中央銀行とか現代人が理解しやすい仕組みなどはすべて後づけで出来ていったシステムでしかない。
王様は作らせたその貨幣を使うことによって通貨が世の中に出回っていく。しかし貴金属には供給の限りがありから好きなだけ作ることができない。それが逆に通貨の価値を維持してくれる。
もし、通貨の品質をさげれば他国の通貨価値が上がり、自国の通貨価値は下がる。したがって通貨の品質は容易には下げられない。こうしたサイクルによって通貨の供給過剰は避けられインフレも避けることができて経済は比較的に安定している時代が続いた。
つまり、通貨を発行した国王や封建領主がその分の負債をかかえこみ借金をかかえるということは基本的に起きなかったはずだ。借金をかかえるとすれば通貨を発行することができないのに借用書を書いて金貸しから借入れを起こして借金をかかえ、それが積もり積もった場合ということになる。
中世の国王が死にもの狂いで金や銀の貴金属を求めた背景には、こうした通貨の発行システム自体が、所有する貴金属の質と量に大きく依存していたという特殊な時代背景があったためであると考えられる。そのためにどれだけのアメリカ大陸の先住民が殺されていったかと思うと、学校の教師が中世の金融システムについて率先して教えたがらないのも理解できる気がする。いや、教えたくてもそのような知識も疑問もそもそも持っていないのかもしれない。
とにかく金融の歴史は知りたいと思うことが容易に知れず、闇が多く、隠されていることばかりだ。
ゴールドスミス・ノートが気になる(15)
プライベートな銀行券の発行こそが時代を変えていった
歴史的にみて、とにかく顧客から預かった金貨を別の顧客に又貸しするという行為が時間をかけて定着していったことは明らかだろう。顧客に無断の又貸しが嫌な業者は預金の管理費用のサービスやきちんと金利なり手数料を払って余分な預金を使わせてもらう合法的な契約をしたかもしれない。とにかく、やがて金貸しは預り金の9割までの融資が可能だという経験値を得ることになる。可能ということは顧客との取引において通常問題が起きないということを意味する。
100億円預かったら、そのうち90億円まで貸しても大丈夫ということは、別の言い方をすれば90億円貸したら終いということになる。これは現代風の金融概念を適用すれば預金準備率が10÷90=11.1%を意味している。しかし、この段階では信用創造という金融機関独特の機能はまだ発揮されていない。ここでは自己資金を遥かに超える融資をが行うことによって資金効率を大きく上げることができるというレバレッジ機能の発見ということである。これはこれで非常に大切な機能なので別途考えるとして、今は信用創造について考えていきたい。
このような状況下、預り証や手形から進化したと思われる「銀行券」なるものが考案され、いつでも額面の金貨と交換可能というキャッチフレーズが喧伝され、また携帯するのに軽くて都合がいいということも手伝って大いに人気となり、顧客がこの新通貨を信じて銀行券を使ってくれるようになることで一体何が起きていったのだろうか…?。結論から言えば「90億円貸したら終い…」ということではなくなる新しい金融の世界が構築されていったということである。金貨という実物通貨を100億円預かっているのだから、金融業務としてはそのノウハウによれば預り金の9倍の900億円の銀行券融資が可能ということになる。実物金貨だと90億まで可能であった融資が、銀行券融資なら900億円まで可能となってしまった。一挙に10倍である。何だか手品を見せられているような話だが、この銀行券の発行こそが、銀行の持つ特殊機能である信用創造の源泉である。
通貨発行権を持っていたはずの国王から見れば、100億円しか世の中に出していなかったはずだから使うにしろ受け取るにしろ貸すにしろ返すにしろその発行された100億の通貨が行ったり来たりしているだけのこと…と思っていた流通している通貨が、金融業者の手にかかることによって自分の預かり知らぬところで世の中に出回る通貨が1000億円になってしまっていたのである。何とも不思議な話だ。
国王がテンプル騎士団に通貨発行権を与えたなどという話は聞いたことがないし、宮廷ユダヤ人には特別に与えていた、などという話も聞いたことがない。そもそも通貨発行権など持ってもいなかった筈の金貸しが国家権力の預かり知らぬところで通貨と同等の銀行券が発行されて機能している世界が出来てしまったことになる。国王の預かり知らぬ「銀行券」なる代物が、いつのまにか実社会では通貨として定着していた。これが時代の実相となっていたとみるべきではないか…。
ただしそれは社会が豊かになって出回っている富が増えたということにはあらず、1000億の借金を金融業者から借り入れた社会が現れたということを意味しているわけである。結果として通貨の発行は借金においてだけ可能となる社会がつくられ、利潤を求めて金利と元金を契約通りに返済していくことこそが仕事となっていく。利潤がありそうな事業にはなんだろうと資金を投入してゆくという現代社会そのもののようなサイクルは実に十字軍以降着々と出来上がっていったわけだ。
ゴールドスミス・ノートが気になる(14)
紙幣登場の謎は活発な手形取引だった可能性
しばしテンプル騎士団の調査はお休みして別の方面から考える時間を設けたい。
「手形」というキーワードで検索をかけていくつか読んでいたら、何だか分からないことが出てきた。14世紀の北イタリアで始まったもの、というのがまず目をひいたものの、8世紀のイスラムの世界では手形取引が認められる…、というものもあったり、古バビロニアの時代には既に現代の手形のような取引、もしくはそれに準じた取引が行われていたという言及までみつかった。古バビロニアっていつ頃なのか調べてみたらバビロン第一王朝ということでBC2000年というとてつもない古さで、ハムラビ法典で有名な第六代のハンムラビ王の在位が前1792年‐前1750年というのだから、それぞれの指摘には信憑性があるものの、やはりあまりに時代が乖離していることに驚かされる。
しかし、盛んに商取引と金融取引が行われていた時代に手形取引がなかったと考えることは非現実的なので私個人の直感としてはバビロン第一王朝の頃には手形取引、もしくはそれに準じた取引は盛んに行われていたと考えておきたい。貸出し過剰で経済が混乱することも多かったというから、逆にいえば信用創造が大々的に行われるかなり進んだ経済体制だったことが伺われる。
そして、バビロンといえば域内にフェニキアもユダヤも含めて統治した一大王国であったのだから、この商売と金融の化け物のような神がかった民族が王国内にあって手形取引程度のことを活用しないはずがない。
手形のルーツについては今後じっくり調べていけばいいものと思うが、なぜ手形なるものに興味を持つに至ったのか…という点が私にとっては重要だ。手形というからには金融業者がいて、支払う振出人がいて、集金しようとする手形の所有者がいるわけだ。振出人は金融業者に資金を預けてあるのは勿論だ。支払いを受ける側の手形の所有者も別のシチュエーションでは手形の振出人になるわけだから、払った集金したといっても金融業者の口座の中を資金が残高を変えながら増えたり減ったりしているだけに過ぎない。
そうであるなら、口座に置いてある重たい鋳造硬貨はいちいち出し入れする必要がなくなり帳簿上の書換え業務が取って替わり、実物流通経済においては重たい鋳造硬貨をやりとりするよりも軽い紙幣に置き換えた方がありがたいのは勿論だ。金融業者に行く度に10kg持って行ったり7kg引き出してきたり、現実的にはやってられないだろう。そこで登場してくるのが持ち運びに軽くて便利な紙幣というものだったに違いない。これは業者と顧客の双方にニーズが一致していたから問題なく広まっていった新システムで、別に金融業者の陰謀で紙幣が考案されたわけではないものと思う。こうしたことを初めて大々的にシステムとして行い始めたのが実はテンプル騎士団だったということで考えておきたい。
もっとも紙幣という言葉は後々の時代が命名したもので、当初は引換券とか銀行券とか例えばテンプル騎士修道会券とか…、いろんな呼ばれ方をしていたはずだ。要はその引換券を持っていればいつでも本来の金貨なり銀貨なりの国王発行の鋳造硬貨に交換してくれるという信頼さえあればよかったわけだ。その引換券が修道会発行だって一向にかまわないのは当り前だ。
紙幣というものは、こんな登場の仕方をしたのに違いない。一応、そう思っておこう。
そしてこのプライベートな印刷物はどのくらい発行しても業務に支障をきたさないか長年の思考錯誤で発見したレベルが、顧客から預かっている資産の10倍前後までOK!ということに落ち着いていったわけだ。
ゴールドスミス・ノートが気になる(13)
テンプル騎士団、中世にあるまじき事業展開力
聖ベルナールが修道会の強力な援護者として名乗りを上げてくれたおかげもあり、その強力な後押しでローマ教皇はテンプル騎士団を騎士修道会として正式に認可、つづいて国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除、金利をつけた融資の許可…など多くの特権をテンプル騎士団付与したことによりテンプル騎士団の人気はホップ・ステップ・ジャンプと爆発していった。従来修道会に適用されていた「不輸不入の権利」よりも遥かに強力な特権が与えられたことにより人気が集中していった。
現金・土地・建物など国王、領主からの財産の騎士団への寄進が相次ぎ、貴族の子弟を騎士修道会へ入会させようという希望が欧州各地から相次いだ。これら莫大な資産をもとに本格的な事業展開に乗り出したところこそ、テンプル騎士団が他の騎士団と全く異なる点だ。
巡礼者は聖地巡礼に必要資金を準備しても自分が持ち歩くのは不安のため、道中の安全を期して騎士団に預金し、宿泊料・飲食料などはすべてエルサレムに着くまでは帳簿かチケット決済、屈強な騎士が資産を守ってくれているのだからこの上なく安全だ。往路に使った金額はエルサレムでいったん精算。帰路についても同じことを繰り返すわけだ。
金融業、旅館業、飲食業、輸送業、海運業、輸出入商社…、戦士や巡礼者のみならず国民生活のニーズのあるものなら全て応えてゆくという事業展開をみせてゆくが、この事業意欲は一体どこからきたのだろうか…?。世の中の変化が長期にわたり停滞したといわれている中世の時代イメージからは程遠いものだ。1,000年、2,000年と経験とノウハウを蓄積してきたフェニキアとユダヤの血筋がなければ思いも付かぬ展開のはずだ。
世の中の支配階級が国王、領主、貴族、教皇と体制を固めていけばその准支配者階級もじっとしてはいられまい。十字軍を境に各地に大学が創設されていくのはこの流れに呼応したものと捉えたい。
イタリアの自由都市国家ボローニャでボローニャ大学が生まれ、フランスでは権力者の介入に対抗して私塾の教師たちが結集しパリ大学が生まれている。「自生的大学」と呼ばれる大学の発生に対して、当然ローマ教皇や国王も黙っているわけでなく多くの大学は、カトリック教会の後援、教皇や世俗君主の主導で「創られた大学」も設立されていった。大修道院長、大司教、枢機卿などの教会の指導的職務、法律家、高度な医療従事者のほとんどはこうした大学で学位を取得した者たちに占有されていったのは必然的なながれである。
国王も教皇もお互いの権威を認め合いながら権力基盤を強固にし、国王と貴族も同様にして確固たる支配勢力として世に定着しようとする。
テンプル騎士団はまさにこうした流れを利用して成長し、結果的に利用されて終焉を迎えるのであるが、金融活動にしろ経済活動にしろ後世に与えた影響はすさまじく、その後500年近くはその延長線上に描かれる活動であったと考えておきたい。
宮廷ユダヤ人にしろゴールドスミスにしろロスチャイルドにしろ、全てはテンプル騎士団の築いた金融事業が原点となっていることは論を待たない。