ゴールドスミス・ノートが気になる(13)

テンプル騎士団、中世にあるまじき事業展開力

聖ベルナールが修道会の強力な援護者として名乗りを上げてくれたおかげもあり、その強力な後押しでローマ教皇はテンプル騎士団を騎士修道会として正式に認可、つづいて国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除、金利をつけた融資の許可…など多くの特権をテンプル騎士団付与したことによりテンプル騎士団の人気はホップ・ステップ・ジャンプと爆発していった。従来修道会に適用されていた「不輸不入の権利」よりも遥かに強力な特権が与えられたことにより人気が集中していった。
現金・土地・建物など国王、領主からの財産の騎士団への寄進が相次ぎ、貴族の子弟を騎士修道会へ入会させようという希望が欧州各地から相次いだ。これら莫大な資産をもとに本格的な事業展開に乗り出したところこそ、テンプル騎士団が他の騎士団と全く異なる点だ。
巡礼者は聖地巡礼に必要資金を準備しても自分が持ち歩くのは不安のため、道中の安全を期して騎士団に預金し、宿泊料・飲食料などはすべてエルサレムに着くまでは帳簿かチケット決済、屈強な騎士が資産を守ってくれているのだからこの上なく安全だ。往路に使った金額はエルサレムでいったん精算。帰路についても同じことを繰り返すわけだ。
金融業、旅館業、飲食業、輸送業、海運業、輸出入商社…、戦士や巡礼者のみならず国民生活のニーズのあるものなら全て応えてゆくという事業展開をみせてゆくが、この事業意欲は一体どこからきたのだろうか…?。世の中の変化が長期にわたり停滞したといわれている中世の時代イメージからは程遠いものだ。1,000年、2,000年と経験とノウハウを蓄積してきたフェニキアとユダヤの血筋がなければ思いも付かぬ展開のはずだ。

世の中の支配階級が国王、領主、貴族、教皇と体制を固めていけばその准支配者階級もじっとしてはいられまい。十字軍を境に各地に大学が創設されていくのはこの流れに呼応したものと捉えたい。
イタリアの自由都市国家ボローニャでボローニャ大学が生まれ、フランスでは権力者の介入に対抗して私塾の教師たちが結集しパリ大学が生まれている。「自生的大学」と呼ばれる大学の発生に対して、当然ローマ教皇や国王も黙っているわけでなく多くの大学は、カトリック教会の後援、教皇や世俗君主の主導で「創られた大学」も設立されていった。大修道院長、大司教、枢機卿などの教会の指導的職務、法律家、高度な医療従事者のほとんどはこうした大学で学位を取得した者たちに占有されていったのは必然的なながれである。
国王も教皇もお互いの権威を認め合いながら権力基盤を強固にし、国王と貴族も同様にして確固たる支配勢力として世に定着しようとする。
テンプル騎士団はまさにこうした流れを利用して成長し、結果的に利用されて終焉を迎えるのであるが、金融活動にしろ経済活動にしろ後世に与えた影響はすさまじく、その後500年近くはその延長線上に描かれる活動であったと考えておきたい。
宮廷ユダヤ人にしろゴールドスミスにしろロスチャイルドにしろ、全てはテンプル騎士団の築いた金融事業が原点となっていることは論を待たない。

ゴールドスミス・ノートが気になる(12)

聖ベルナールの援護でテンプル騎士団に脚光

・テンプル騎士団初期の経緯をWebで拾ってみたい。

1096年~1099年 第1回十字軍 エルサレム奪還に成功。地中海東岸にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国の主要4国をはじめいくつかの十字軍国家がつくられたことにより、多数のキリスト教巡礼者が聖地へ向かって旅ができるようになった。しかし、エルサレム市街は治安が比較的良好に維持されていたものの、十字軍国家のそれ以外の場所は危険な状態だった。エルサレムへ向かう街道には盗賊があふれ、巡礼者たちは日常的に、時には一度に何百人もが虐殺された。このまま放置してはおけない状態が何年も続いていた。

1101年の十字軍は失敗に終わり、1107年の秋から1110年にかけて5,000名規模・ガレー船60隻のノルウェー十字軍も行われたが巡礼者の危険な状態は依然つづいていた。

1119年 フランス・シャンパーニュの貴族ユーグ・ド・パイヤンほか9名でエルサレム巡礼者の警護を目的とした修道会・テンプル騎士団を結成。

1120年 エルサレム王国のボードゥアン二世と総大司教ヴァルムントに修道会の設立を願い出て承認される。ソロモン神殿跡地を譲り受け、そこに立つイスラム教徒から占領したアル=アクサー・モスクを、修道会に本部として与えした。これがテンプル騎士団のエルサレム本部となる。

しばらくの間鳴かず飛ばずの状態がつづいていたテンプル騎士団だったが、その後九人の騎士のひとりアンドレ・ド・モンバールの甥で宗教界の要人であったクレルヴォーのベルナルドゥス(聖ベルナール)が修道会の強力な援護者として名乗りを上げたことによって様相が一変した。

1128年 ベルナルドゥスの尽力によりローマ教皇ホノリウス2世はフランスのトロアで開かれた教会会議でテンプル騎士団を騎士修道会として正式に認可した。

1139年 ローマ教皇インノケンティウス2世 テンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除、金利をつけた融資の許可…など多くの特権を付与。

ゴールドスミス・ノートが気になる(11)

騎士道精神と事業拡大能力の両立???

テンプル騎士団が金融の世界に対して果たした役割は非常に大きなもののようで、現代人の想像を超えていると見るべきだ。最大の謎は聖地巡礼者を危険から守る警護を目的として創設された騎士団は、どちらかといえば義侠心に燃える精神的価値実現を追求する真面目な堅い集団であったはずなのに、それがやがて国家を凌駕するほどの巨大な金融事業と経済活動の担い手といえるほどの巨大集団に何故変貌していったのか…という点だ。
その悲劇的な結末がフランス国王(フィリップ四世)の非道とローマ教皇の非道をあからさまにする内容であるため、世界史の中では伏せておきたい部分であったことも問題を分かりづらくしている。
常識的に考えてテンプル騎士団が本来持っていたと思われる堅物の宗教家や騎士道精神が金融や事業拡大の経済運営を本格的に志向するわけがないのだから、テンプル騎士団の創設メンバーの中にはいつしか交易と商売の血を象徴するフェニキア人の血とノウハウ、金融を象徴するユダヤの血とノウハウが深く入り込んだと考えるのが自然だろう。
第一回十字軍遠征の勝利(略奪)の結果できた十字軍国家・エルサレム王国からソロモンの丘用地がテンプル騎士団に寄贈され、そこのソロモン宮殿跡地にテンプル騎士団の本部が置かれたわけだが、この地こそその昔のユダヤの地であり、その北側にはフェニキアの地(レバノン)であったことからみても、ますますテンプル騎士団へのユダヤ人とフェニキア人の侵入が問題とされなければならないはずである。
そのへんの雰囲気は単なる啓蒙団体だったイギリスのフリーメーソン組織の中にイルミナティ勢力が侵入してゆく過程と似たものがあったはずだ。

西欧諸国が来たるべき新時代に向けて国家の形成期にあった時代である。ローマ帝国が西と東に分裂したのが395年、西ローマ帝国が崩壊したのが476年。その後にできた巨大帝国・フランク王国も843年に西フランク王国東フランク王国中部フランク王国に3分割されてしまった。ロシアの前身となるノヴゴロド国、イングランドのノルマン・コンクエスト、スペインのレコンキスタ。
そうした時代に諸国を統治しようとした支配者階級が一番求めたものは何であったろうか…?。それは自己の統治の正当性を認めてくれる存在であり権威を与えてくれる存在であるのは当然である。そこには宗教的権威は不可欠なものとなっていた。そんな時代背景のなかローマ教皇ウルバヌス2世により十字軍遠征は呼びかけられたのである。
これに呼応する諸国の様を見ると、全ての新興国家が喉から手が出るほど自己の統治の正当性と国家の権威と承認を欲していたであろうか、…想像に難くない。
この社会的ニーズに見事に乗ったのがローマ教皇でありテンプル騎士団だと見ることができる。

ゴールドスミス・ノートが気になる(10)

テンプル騎士団が世界初の国際銀行?

十字軍からルネサンス期までに起きた金融変化とはどのようなものであったのか…?。とにかくこの期間に大きな変化があったはずだ…という推測はしていたものの、私の知識ではどうもはっきりしない。モヤモヤしたまま、夜中に「十字軍 金融」などとキーワードを入力してあれこれ検索をかけていたら、何とドンピシャ疑問にはまる見事な解説がされているサイトが見つかって久々にびっくりした。何ヶ月間も悩まされていた問題に、ドンピシャ光が当てられたような気がしてくるブログだ。こういうことは非常にめずらしい。
『とある歴史好きオヤジの戯言』というブログの テンプル騎士団………世界初の国際銀行の破綻 という回である。
テンプル騎士団が世界初の国際銀行だったなんて初耳だ。聞いたこともない。
勿論、テンプル騎士団という存在の概要は知っているつもりでいたが、それはあくまでも十字軍に関連した騎士団としてであり、よもや世界初の国際銀行だったなどという話ではない。
詳しくはこのブログを読まれるといいと思うが、要は「ゴールドスミス・ノートが気になる」と題した私のブログタイトルに対するそのものズバリの回答のようなものが、ここで紹介されているのである。ゴールドスミスでは「預り証」が「銀行券」となり「紙幣(通貨)」となっていったと呼ばれたものが、テンプル騎士団では「預託証券」と呼ばれるだけである。そして担保の裏付けもない紙幣が自己増殖を始める「信用創造」という近代銀行業最大の機能の発見もゴールドスミスと全く同様である。おまけにテンプル騎士団では「信託銀行」機能の創造まで加わっているから驚きだ。
このテンプル騎士団金融に果たした役割を知れば、なぜ14世紀につづいて起きる銀行業や損害保険業という現代につながるルーツがこの時代に出来上がっていったのかが理解できる。
第1回十字軍(1096年)のあと1119に創設され1307年にフランス国王によって一斉逮捕、異端審問、死刑にされてゆく展開は、滅茶苦茶な脚本によるハリウッド映画でも見ているようである。
しかし、金融に於けるテンプル騎士団果たした役割が大きければ大きいほど、そういうノウハウや知識を伝授したのは誰なのか?、という当初の疑問は以前残る。テンプル騎士団が創設された当初は純粋にキリストの聖地エルサレムの聖地を奪還しようという大義で始まったわけだから。十字軍の戦費を用意した勢力がいた頃、テンプル騎士団はまだなかったのだから…?。

ゴールドスミス・ノートが気になる(9)

十字軍遠征の戦費はどこから調達?

あっという間に日が経ってしまう。1週間、2週間と経ってしまうと、前回最後に書いたときの自分の問題意識が何であったのかも、すぐには思い出せない。年を感じる。
とにかく、まず金匠がいつごろから顧客から金貨を預かり始めたのかを知る必要があると思ったわけだ。次にその預金を融資にまわしても問題が起きないことを金匠が発見し、最終的に預けられた預金量の9割まで貸し付けてもOKということを会得して、自己資金の何倍も貸し付けて収益を最大化させたいった時期を知りたいわけだ。要するに、レバレッジを効かせると利益が飛躍的に増えることを金貸しは知るわけだ。これこそ一大金融革命だろう。
そしてその時期を見定める一応の目安として、十字軍以降の北イタリアの金融組織の隆盛から莫大な投機資金が必要であったろうルネサンス期の大航海時代の始まりあたりまでの300年間が一番怪しいというか、金融世界の大変革期とみられることから、この時代に完成されていったシステムであろうと私は勝手に当りをつけた。ここまでが前回の投稿だったように思う。
北イタリアのいフィレンツェ、ヴェニスの隆盛時代がストレートに結びつくわけだ。

しかし、そこでえらく引っかかる問題があり、やたらと気になって仕方ない。そもそも、その十字軍遠征を可能ならしめた巨大な戦費はどこから来たのかということである。ローマ教皇に金を貸し、その呼びかけに呼応して遠征に参加しようという各国の国王や貴族に金を貸すって、学者が文字で書くのは簡単でも現実には簡単に出来ることではないだろう。すでにこの時点で巨大な金融勢力の存在がイタリアを中心に存在していたことは疑いようがないように思われる。
ルネサンス期であれば、それは「宮廷ユダヤ人」なら可能だったのではないか…?、などと強引に推理できたとしても、あまり無理とは思えないのだが、十字軍はその400年前のことである。ましてこのとき各地に散在していたユダヤ人部落は無惨にもひどく殲滅されてしまうわけだから、当時の巨大な金融勢力がユダヤ組織であったと考えることには無理がある。味方を殺しても平気な勢力が既にこの当時から存在していたと考えるのは常識的には無理である。

そうであるのなら、11世紀には既に巨大な金融勢力があったとして、それはどこから来たのか…ということを知らなければならないことになる。素人考えながら思い浮かぶことは、何故イタリアの地で14世紀に損害保険や銀行の誕生など制度的に金融革命的な出来事が起きたのか…ということである。イタリアと言えば真っ先に思い起こすのは、この地にかつてあのローマ帝国が存在したということである。そして地中海といえば、そのローマ帝国が1000年以上にわたり地中海貿易を一手に仕切ってきたフェニキア人の要衝・カルタゴを滅ぼした帝国である、ということである。
1000年以上地中海貿易を一手に仕切ってきた…ということが、どういうことを意味しているのか理解することは容易でない。1000年の間一体、どれだけの交易基地が増え、数多くの船が地中海に作られていっただろうか?。交易が増えるということは決済が増えつづけるということであり、つまりは預金・貸付・手形・小切手・為替相場などの金融業務は当り前のように大きく膨れ上がり金融技術も大きく変化し発展していったに違いない。
そしてBC146年、カルタゴがローマ帝国に滅ぼされたからといってフェニキア人が全員虐殺されたわけでもないのだから、今度はローマ帝国の支配管理下で交易と金融を継続させていったに違いない。ちょっと驚きだが、後のローマ皇帝の中には敗軍の民・フェニキア人の血を引く皇帝までいるということだが、にわかには信じられない。しかも、あれほど禁じ弾圧したキリスト教が国教にまでなってしまうというのは何とも不思議でもある。
とにかく、地中海貿易を一手に牛耳っていたフェニキアの1000年、その滅亡から十字軍遠征までの1100年、その2000年余の間に産業と金融の世界にどのような変化が生じたのか知らないということは、ちょっと致命的で辛すぎる知識不足だ。

ゴールドスミス・ノートが気になる(8)

15世紀には準備金概念に基づく
融資レバレッジはできあがっていた

17世紀のロンドンのゴールドスミスについて語られるとき、要点は二つにまとめられると思う。
一つは
(1)顧客から預かった金貨を安全に保管しているふりをして、実は裏では顧客に無断でその預り金を貸付けるなど融資資金として使い、大勢から金利を取っていた。これは自分のものでもないお金を勝手に又貸しして利益を得るのだから立派な詐欺ではないか…?、という論点がまずある。
 
次に
(2)金貨を預かるときに発行していた「預り証」がいつのまにか紙幣へと変容して通貨を代用するものになっていった、という論点がある。これには異論もあるようで、その後百年以上経っても一向にその証拠となるような預り証が見つかっておらず、相変わらず預かったことを証する証文であったとする見解もある。
どういう経緯をたどって個別の銀行が発行した紙の銀行券が国民の間で通貨として認められていったのか…という問題は確かに重要だが、国家が発行したわけではないプライベートな銀行券が国の経済の流通を支配する通貨となって広まっていったことこそ重大なことのように思える。

(1)の詐欺ではないかという論点については、前回の投稿で試算したように、最初は詐欺であったとしても10年~15年経過してしまえば自己資金で融資がはじめられるようになってしまうのだから、当初は詐欺でも時が経ってしまえば合法的な行為に早替りしてしまうのであれば、歴史的にみてあまり重視すべき問題ではないと思える。
また、金庫での保管料を預金者には割引したり、無料にしたり、預金に対しては金利を払ったりすることによって預金運用に関しては完全に運用主の行為は合法化できるわけだから、悪事の核心を暴く…的な解説を読むと、何だか違うのでないかなあ…?、などという気になってくるわけだ。
 むしろ預かった預金の9割を貸出に回しても経営を問題なく回していくことが出来る…という融資限度を見極めるレバレッジの発見こそ歴史的な大発見だったように思える。
現代では中央銀行の決める「準備金率」さえ守っていれば幾ら顧客の資金を又貸ししようが当り前に合法的な行為とみなされるに至っているが、その原点がここで形成されたということであろう。

では、その原点が形成された時期はいつ頃なのか…、という問題が浮上する。
地中海貿易の発達による北イタリアの諸都市で本格的な損害保険が生まれたりバンクの語源がこの時期に辿れるということだから14世紀にはおおよそ形になってきていて、1492年のコロンブスの大航海が始まる頃にはほぼ出来上がった金融システムだと考えておきたい。ちょうどその頃の、15世紀にはメディチ家など大銀行家も出現したわけだから、当たらずとも遠からずだと考えておきたい。
つまり、17世紀のロンドンのゴールドスミスが登場する200年も前には金融レバレッジというものは既に完成されていた、というようにとりあえず見ておきたい。